黙示録3章

3:1 また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

 イエス様については、御霊と星すなわち御使いを持つ方として示されています。数が七つと示されていますが、満たす意味での完全さを表していて、全て御霊による働きは、主イエス様から来ること、また、御使いは、全てイエス様のしもべとして働くことが分かります。

 サルディスの教会について、最初に彼らの悪い状態が指摘されています。彼らは、死んでいました。「生きている」とは名ばかりとは、信仰を持ち信者となっていることを指しています。しかし、それなのに死んでいると指摘されています。この「死」については、「悔い改め→考えを変える」機会が与えられていますので、ゲヘナで滅びることではありません。彼らは、御心に適った行いをしていなかったのです。神の前に生きた者とし実を結ぶことがありませんでした。

3:2 目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。

 彼らに求められていることは、目を覚ますことです。彼らは、眠っていました。自分の霊的状態が分からないのです。生きているのに、いのちの活動がないのです。

 他の人たちも死にかけていました。彼らを力づけ、立ち上がらせなければなりません。彼らは、霊的に躓いていました。

 主は、彼らの行いが完了しているとは見ていませんでした。彼らは、これで良いと思っていました。到達すべきところに到達したのだと思っていたのです。

・「完了する」→到達すべきところに到達する。

3:3 だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。

 彼らに求められたことは、初めに受けたことを思い起こし、それを守り考えを変えることでした。彼らは、最初に伝えられた教えを守っていませんでした。考えを変えることは、目を覚ますことです。教えられたことを守るように考えを変えることなのです。

 さらに、警告が示されていて、盗人のように来ると言われ、目を覚まさないならば、突然来られて、その悪い状態をご覧になられて評価されるのです。

・「悔い改める」→考えを変える。自分犯したことを悔いて、二度としないように行いを改めることではない。

3:4 しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。

 サルディスには、わずかな者たちが衣を汚さないでいました。衣は、外に現す行いです。それが汚れているというのは、教えられた御言葉に適う歩みをしていないことです。これは、道徳的な汚れだけでなく、あらゆる面に関しての教えの誤りによる行いを表しています。

 そのような人たちは、白い衣でイエス様とともに歩むようになります。動詞は未来形です。これは、報いとして必ず受けることを表しています。すなわち、彼は、聖い歩みを現した者としての評価を与えられ、白い衣を着るのです。そして、イエス様とともに歩みます。イエス様は、聖い歩みをされた方であり、そのために高く評価され栄光を受けておられます。共に歩むことは、同じように高く評価され、栄光を受けることを表しています。

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

 勝利を得る者は、この白い衣を着せられます。その名は、いのちの書に記されます。名とは、その人の行いです。いのちの書には、イエス様を信じた者の名が記されています。しかし、それだけではなく、彼の行いが記されています。

 その名は、父と御使いの前で言い表されます。それは、彼のなした正しい行いが言い表されるのです。名前だけが言い表されるのではなく、その人がなした信仰の行いが価値あるものとして、紹介され、父も、御使いも共に覚えるためです。天全体にそのことが紹介され、その人の誉となるのです。イエス様がその正しい行いのゆえに、父と御使いの前に栄光を受けておられるのと同じです。

3:6 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』

 聞く耳のある者について、イエス様は、種蒔きの例えをされた時にその言葉を使われました。信仰を持って聞く人が、その言葉を受け入れることができます。これは、音が聞こえる者のことではなく、聞いて受け入れる心を持つ者のことです。

3:7 また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方、彼が開くと、だれも閉じることがなく、彼が閉じると、だれも開くことがない。その方がこう言われる──。

3:8 わたしはあなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

 この門は、支配権を表しています。その支配権は、父のものです。そして、その門はダビデの鍵を持つ方が開いておいたものです。その門をくぐる者は、父の身元に導かれ、イエス様によってもたらされる栄光に与ります。

イザヤ

22:15 万軍の神、主はこう言われる。「さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。

22:16 『あなたは自分のために、ここに墓を掘った。ここはあなたに何の関わりがあるのか。ここはあなたのだれに関わりがあるのか。高いところに自分の墓を掘ったり、岩に自分の住まいを刻んだりして。

22:17 ああ、勇者よ。主はあなたを遠くに投げやる。あなたをわしづかみにし、

22:18 あなたをまりのように丸めて、広々とした地に投げ捨てる。そこであなたは死ぬ。そこであなたの誇る戦車も。あなたの主人の家の恥さらしよ。

22:19 わたしがあなたをその立場から追放する。あなたは自分の地位から引き降ろされる。

22:20 その日、わたしはわたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、

22:21 彼にあなたの長服を着せ、彼にあなたの飾り帯を締め、彼の手にあなたの権威を委ねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。

22:22 わたしはまた、彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。

 ダビデの家は、キリストの支配のもとにある者たちを表しています。このエルヤキムは、キリストの比喩です。ダビデの家の鍵を持つことは、そこに出入りする者を決める権威があります。

22:23 わたしは彼を杭として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。

 彼は、確かな所に打ち込まれた杭として揺るぐことがないことを表しています。

 父の家は、彼の父の家を表していて、父なる神様の家を表しています。それは、天です。そこに於いて、その座は、栄光の座です。

22:24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢からすべての壺に至るまで。

 彼の上にかけられる栄光は、父の家のすべての栄光です。父の家の栄光は、全て彼にかかっていることを表しています。子や孫は、彼の血筋にある者を表していて、霊的には信仰による人々です。器は、父がその業をなす時用いる器を表していて、働き人を表しています。贖いの業も、信者をとおして現される栄光も全てイエス様にかかっています。

22:25 その日──万軍の主のことば──確かな場所に打ち込まれた杭は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取り壊される。──主はそう語られた。』」

 しかし、「その日」と言われる時に、その杭は抜かれます。彼の持っていた栄光は、地に落ちます。神様が王とし、メシヤとして遣わされたのに、それは、無きに等しいかのようになりました。その方は、十字架に命を落とされるのです。

・「その日」→日。前置詞「~うちに」と定冠詞がついている。特定の日のこと。「定めの時に」。前節までの流れを受けての「その日」ではない。

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 よみがえられた方は、そのダビデの家の鍵を持つ方として紹介されています。その鍵は肩に置かれます。彼の権威としてその鍵を持つのです。

 これは、ペテロが御国の鍵を与えられことと関係づけると、父の支配権の元にある御国に入る鍵を与えられます。彼は、異邦人も信仰によって救いに与り、御霊を受けるものとされていることを実体験を通して示した人です。そして、その御国については、ハデスの門もそれに打ち勝つことができません。ハデスの門は、ハデスの支配権を表していて、ハデスに入れる力です。それは、神の裁きによることですが、その裁きに決して及ばないことを表しています。

3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、嘘を言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。

 彼らは、栄光を受けるにふさわしいとされました。しかし、ユダヤ人であると自称している人々がいました。彼らは嘘を言っていました。ここで、「ユダヤ人」であることは、神様がダビデの家の鍵を持つ方としてのキリストに与る人を指しています。その契約は、ユダヤ人と結ばれたものです。その祝福は、今日異邦人に及んでいます。

 ちなみに、黙示録は、ユダヤ人に関する記述が中心です。契約は、ユダヤ人と結ばれたものであり、預言とその実現について記されているのです。

 彼らは、サタンの会衆に属していて、信仰がないのです。彼らを足元にひれ伏させるのは、彼らが敵対していたからです。少なくとも、フィラデルフィアの真の信者に対して高ぶっていました。主が彼らをひれ伏させるのは、主が信者を愛しているからです。

3:10 あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。

 フィラデルフィアの信者は、忍耐について主の言葉を守りました。それで、主は、全世界の地に住む者たちにやってくる試練の時に守られます。

 これは、いわゆる患難時代のことではありません。「試みるための試練の時」と記されています。患難時代は、地上に対する裁きの時です。それ以前に、信者がまだ携挙されず、地上にいる間に全世界に試練が来るのです。それは、いつの時代でも迫害があり、戦争や災害などがあることからも分かります。

 その時、主は、忍耐についての主の言葉を守った信者を守られることを約束なさいました。彼らは、常日頃、忍耐して御言葉を守っているのです。御言葉を守ることは、信仰によることです。試練の中でも、そのような人は、御言葉を守り続けるのです。主は、喜んでそのような人を守られるのです。

3:11 わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。

 自分の冠とは、彼が忍耐についての主の言葉を守ったことに対する報いです。その冠は、どのように御言葉を守ったかにかかっています。ですから、信仰の歩みを損なってはならないのです。持っているものをしっかりと保つことが必要です。それが報いをもたらします。その報いを奪われないように、今、信仰によって御言葉を守っている歩みをしっかりと保つ必要があります。悪魔は、それを損ない、躓かせようと働いているのです。神様は、試練の時、悪魔の働きを許されるのです。そして、人々の信仰が本物かどうかを試みられるのです。

3:12 わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。

 勝利を得る者は、主の忍耐についての御言葉を守った者のことです。その人は、神殿の柱とされます。主の臨在のもとに、主の栄光を現すものとされます。神殿は、主の栄光の現れであるからです。そして、柱は、証しをあらわしています。主の栄光を証しするのです。彼が、主の言葉を守ったことで主イエス様の栄光を証しします。彼に信仰により御言葉を守るようにされたのは、主イエス様の働きであるからです。彼は、主イエス様の栄光を表し、それを計画された神に栄光を帰したのです。そのような栄光を表す者として証しするのです。そして、彼は、いつまでもそこにとどまり、もはや出て行くことはありません。

 その柱に記されている名があります。一つは、神の御名です。これは、父の御名です。彼は、神の栄光を現した者として、栄光を受けます。彼を通して、神の御心が実現したからです。

 新しいエルサレムの名が表していることは、勝利者の永遠の相続です。忍耐して御言葉を守った者は、永遠の栄光を相続します。

 イエス様の新しい名は、先にも増して栄光を受けておられる名です。神の御心に従い、十字架の死にまで従われたがゆえに受けた栄光です。忍耐して御心を全うしたのです。彼は、それと同じように、自分を捨てて忍耐して御心を行ったのです。それを実現させたのは、主イエス様の働きです。その名が記されます。

3:13 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』

 御言葉を守ることの尊さが示されました。それは、永遠の栄光をもたらします。必ずや聞き従うべき言葉なのです。

3:14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。

 アーメンは、「ある」という意味です。実在者を表します。それと共に、それは、嘘偽りがないことを表します。

コリント第二

1:20 神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

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 神の計画通りに実現したことを表しています。

 そして、確かな真実な証人です。神の言葉を証しされる方です。口で語ると共に、行いによって証しされる方です。その方については、確かで真実です。確かとは、確実に漏れることなく正確に伝えることを表しています。そして、真実は、嘘偽りがないことを表しています。このことが記されているのは、信者も同じように証しする者であるからです。

使徒

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

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 信者は、イエス様を証しする者とされています。

 そして、神による創造の源です。神は、この方によって全てのものを造られました。また、全ての業は、主イエス様によって実現しました。それは、物質の創造にとどまらず、教会を建て上げることもそうです。それは、神の業としてなされますが、神の栄光のためです。

3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。

3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。

 ラオディキアの教会の問題点は、彼らの行いが熱くもなく冷たくもなかったという点です。生ぬるいのです。彼らは、イエス・キリストを証しする者としてその役割を果たしていなかったのです。彼らの行いがそれを証明していました。イエス様は、冷たいか熱いかであることを求めました。

 冷たいことは、次の節から分かりますが、惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である状態でそのことが自分たちで分かっていることです。

 熱いとは、富んでいて、豊かになった、足りないものは何もない状態です。

 冷たいことが良いことなのではなく、それが分かっていることが救いであり、考えを変える可能性があるからです。

3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。

 ラオディキアの教会は、自分たちは、豊かになったと言っていましたが、貧しい裸の状態であることが分かっていませんでした。

3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。

 彼らは、貧しい状態でした。イエス様は、忠告されました。豊かな者になるために、火で精錬された金を買いなさいと。金は、義の行いを表しています。火で精錬されることは、混じり気のないことを表しています。それは、試練を通してきよめられたものです。買うことは、彼らがそのために自分を捧げることを表しています。

 次は、白い衣です。これは、聖い行いを表しています。それは、イエス様を現す聖い衣です。それは、裸の恥を覆います。裸の恥とは、肉を現すことです。

 次は、目薬です。彼らは、目が見えていませんでした。目は、信仰の比喩で、神の言葉である真理の光を受け入れることを表しています。彼らは、その目が悪かったのです。御言葉を聞き、それをそのまま受け入れ、従うことができていませんでした。

3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

 イエス様は、愛する者として叱ったり懲らしめたりされます。彼らは、今の状態が富んだ、豊かな状態と考えていましたが、そんなことはありませんでした。それが間違いであるということに気づき、考えを変える必要があるのです。そのために懲らしめるのです。

・「悔い改める」→考えを変える。

3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 イエス様は、戸の外に立って叩いていました。彼らは、イエス様を締め出した状態にありました。イエス様は、叩いておられました。彼らが戸を開くように、心を開いてイエス様を受け入れるならば、イエス様は、そこに入られ、共に食事をされます。その人も共に食事をします。一方的ではなく、共に交わる喜びを経験するのです。その交わりを通して、イエス様を知ることになります。イエス様を受け入れて御言葉に従うことで、イエス様を知り、イエス様を現す者になるのです。そして、彼らが御言葉を受け入れて従うならば、イエス様と一つであるという命を経験するのです。

3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」

 勝利を得る者は、イエス様の座に着かせられます。それは、イエス様が父の座に着いたのと同じです。父と同じ栄光をイエス様は受けておられるのです。それは、イエス様が父を証しされたからです。父の証人として、その言葉と行いにおいて父を証しされました。父の栄光を現したのです。ですから報いとして、父と同じ栄光を受ける者とされたのです。同じように、私たちが白い衣を着てイエス様を現す歩みをするならば、私たち自身がイエス様と同じ栄光を受ける者とされます。